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離島・へき地医療の現場

「山間へき地で総合診療医になる」 / vol.2 / 01 山形県立河北病院 深瀬 龍先生(インタビュー編)

離島医療・へき地医療と聞くと、
 興味はあるけど身近にない。イメージが湧きにくい。だから、飛び込みづらい…
そういう方多くないですか?

JPCA「島嶼およびへき地医療委員会」では、多くの方が島嶼・へき地にもっと関心をもってもらう為に、日本全国の島嶼やへき地などの医療現場を訪れ、働いている医師を通して離島やへき地で実践されているリアルな医療、そしてそこでの生活を紹介するシリーズをお届けします。中高生や医大生、これからそのような医療に飛び込んでみたいと考えている先生方には、このシリーズでいろいろなロールモデルに出会えると思います。また、地域で生活されている方には、医師がどのような想いでその地で医療を行っているのかを垣間見て頂ければと思います。

「へき地医療を経験したことが医師としてのターニングポイントに」 【医師】 深瀬龍先生

「医師としてではなく〝村民〟のひとりとして、この地域に何ができるかといった感覚が芽生えてきました」。かつて大蔵村という小さな山村でへき地医療に取り組んでいた時のことを振り返ってそう語るのは深瀬龍先生。当時の経験を活かして現在は若手の総合診療医の育成にも取り組み始めているとのことです。そんな深瀬先生に、これまでの歩みとともにさまざまなことをうかがうことにしました。
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初期研修2年目までずっと小児科医を目指していた

― まずは先生が医師を目指すようになったきっかけから教えていただけますか?

これははっきり覚えていて、中学2年生の時ですね。親戚に子供が生まれたというので病院に顔を見に行ったんですよ。その時、生まれたばかりの赤ちゃんを目にして強く感銘を受けました。「生命の貴さ」にふれたと言えばいいのでしょうか、とにかくその瞬間「自分は小児科のお医者さんになろう!」と決めたんです。天啓のようなものだったのかも知れませんが、きっと子供という尊い命を守りたいと思ったんでしょうね。

― 家族に医療関係者の方がいたというわけではなかったんですか?

実は父親が医者でした。自治医大の6期生で、消化器内科医だったんです。ただ「親が医者だから自分も医者に」という流れではなかったんですね。医師という仕事自体は身近にはありましたが「それとこれとは別」という感じです。あくまでも赤ちゃんを目にした時の感動が私が医師になろうと思った原点ですね。以来、医学部を目指して勉強するようになりました。友だちからは「成績の悪いお前が医者になると口にすること自体が気に入らない」とまで言われたりもしましたが(笑)、自治医大に進学することができました。自治医大に入ったとは言え、最初から地域医療を目指していたのではなく、当時は小児科医になるつもりでした。その思いは初期研修2年目までずっと抱いていましたね。

― 総合診療に関心を持つようになった出来事があったのですか?

そうなんです。私が初期研修を受けたのは「山形県立中央病院」だったのですが、ここは救急急性期の病院なんですね。それである日、私が救急の当直をしていた時ですが、誤嚥性肺炎の患者さんが搬送されてきました。酸素投与をしなければならないということで、それなら入院が必要だと思い、受け入れてくれそうな診療科にあたってみたんです。そしたら「それはうちじゃない」と言われ、別の科からも「他をあたってほしい」ということが起こりました。それで途方に暮れていたら救急科の先生が「うちで引き取るよ」と言ってくれて、ホッとした経験があります。その時「何でも診ることができる医師ってかっこいいな」と思ったんですね。そこで自分のなかに「総合診療医」という選択肢が生まれたんだと思います。
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山形県の山間地域にある人口3000人の大蔵村で迎えた転機

― 総合診療医になろうと決断をしたのはどのタイミングだったんですか?

初期研修のあと自治医大の派遣で2年間、最上町立最上病院に行くことになったのですが、ここで地域医療を実践しつつ小児科の研修も受けさせてもらいました。そうやって過ごすなかで総合診療の面白さに気づいたということがひとつにはありますし、また総合診療でも小児科的な要素があって「この部分だけでも自分は充分にやりがいを感じられる」と思ったんです。小児科医の道を選んだら子供しか診ることができず、しかも小児科のなかでもさらに専門分化していく流れがあることを考えると「自分はそれで満足できるのかな?」と思いました。
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― そういう経緯があって総合診療医になられたんですね?

ええ。でも当時は総合診療専門医の制度がなくて、後期研修を受けられなかったんですね。ただ総合診療の勉強には取り組みたいと思っていて、いろいろ調べていくうちに見つけたのが、日本プライマリ・ケア連合学会で行っていたオンライン勉強会です。「月例!はっちぼっちステーション〜家庭医療コア勉強会〜」といって、総合診療の勉強がしたいけどその機会のない専攻医を対象としたものです。これはいま富山市まちなか総合ケアセンターにいる三浦太郎先生が始めたものです。この勉強会ではずいぶんお世話になって、いまでは私自身も運営に関わっています。その後は山形県立新庄病院、山形県立中央病院緩和医療科を経験して、大蔵村診療所に赴任しました。私にとってこの診療所に勤務したことが転機になったと思っています。
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― どのような転機だったのでしょうか?

大蔵村というのは山形県の北部にある村で、人口は約3000人ほどです。いわゆるへき地ですね。唯一の医療機関として診療所があって、60代の所長と私との2人体制でした。ここでひたすら外来の患者さんを診ていたんですけど、この時「村民のひとりとして村に暮らしながら医療を行う」ことの意味が自分のなかでストンと理解できました。「家庭医療」というものが腑に落ちたと言えばいいでしょうか。この村にいた時に長女が生まれたということもあってなおさらでしたね。村に住み、村で働き、子育てをし、毎日ご飯を食べる。そうした日々を過ごすうち医師としてではなく「村民」のひとりとして、この地域に何ができるかといった感覚が芽生えてきたんです。もちろんへき地に住んだ医師がすべてそうなるとは言いませんが、私の場合はそうでした。その考えに至ったことが個人的には大きかったですね。
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― 「村民」のひとりになったという感覚は大事でしょうね

また、この大蔵村では新型コロナウィルスの流行時に介護施設でクラスターが発生したことがありました。そのため、大蔵村の人たちが村外に行くと冷たい扱いを受けるようになってしまったんです。それを受けて、私は村民として何かできないかと考え「新型コロナウィルスの説明書」というパンフレットを作りました。正しい知識を身につけて新型コロナウィルスと戦ってほしいとの思いを込めながら、子供からお年寄りまで誰もが理解できるように書きました。これが意外なまでに評判となって、その後山形県の全世帯に配られることになったんです。
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私にとっては普段顔を合わせている村のおじいさんやおばあさんが困っている、だったら自分も村民のひとりとして何かしなければという気持ちでした。診療所のなかだけではなく、外に向かって1歩踏み出したという感覚がありましたね。その「1歩」は村の人たちに受け入れられて、総合診療医・家庭として花が開いたとの手応えがありました。この経験は大きく、その後の自分の支えになっていると思います。
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へき地医療の経験は確実にいまに活かされている

― 現在は山形県立河北病院に勤務されています。こちらに来た経緯は?

大きくは、自分と同等ないし自分よりも優れた総合診療医を山形県内にたくさん増やしていきたいとの思いがあったからです。総合診療について語ることができる人的ネットワークを県内に作りたいとの気持ちもありました。
自分自身が総合診療医としてプレイヤーであり続けることはもちろん大事ですし、ずっと大蔵村にいることもできました。でも、それだと山形県全体を幸せにすることはできません。だから、プレイヤーでありつつも教育者としての役割も担える規模の病院に行きたかったんです。あまり大きな規模だとマネジメントが難しくなるので、組織としてちょうどいいくらいのスケールを持つ病院を探していたところに出会ったのが河北病院だったというわけです。
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― 今後の先生の目標は人材育成ということになるのでしょうか?

そうですね。先ほど人的ネットワークの話をしましたが、実は以前からコツコツと人脈づくりは進めてきていました。そのつながりのなかで後輩たちが河北病院に来てくれることになって、2024年度からは総合診療科はますますパワーアップする予定です。本格的なチーム体制を取ることができるわけですね。そのなかには当院初の専攻医も含まれています。「自分も総合診療に取り組んでいきたいと思います」と、仲間に加わってくれました。

私自身は大蔵村をはじめとして地域で育ててもらったという思いがありますし、自分でも地域医療を頑張ってきた自負があります。現在はガチガチのへき地医療からは離れているものの、これまでの経験があったからこそいまがあるというのは確実に言えることです。河北病院にしても少し離れたところには農村エリアが広がっていて、地域に必要な医療リソースの提供は欠かせません。そういうことも含めて、私のように自らの経験をベースに地域医療・総合医療・家庭医療を面白がっていけるような若い人たちを育てていきたいというのが、この5年10年で取り組んでいきたいことですね。
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プロフィール

山形県立河北病院 総合診療科
深瀬 龍(ふかせ りゅう)
/ 山形大学医学系研究科先進医科学専攻 医療政策学講座 博士課程

2013年自治医科大学医学部を卒業後、山形県立中央病院にて初期研修修了。 
医師3年目からは、最上町立最上病院、山形県立新庄病院にて診療を行う。
2018年より山形県立中央病院にて研修後、大蔵村診療所に赴任。
2022年4月に山形県立河北病院に着任し、現在に至る。
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取材後記

地域医療の実践者としてさまざまな経験を積んできた深瀬先生。そのなかでも特にへき地医療となった大蔵村での3年間によって総合診療医としての自信が育まれたとのことだった。これは深瀬先生に限ることではなく、へき地医療を経験した他の医師の方々にも共通する傾向と言えるのではないだろうか? 「立場が人を作る」という言葉があるが、責任の大きな環境に身を投じることが成長をうながし、自信を育てると考えて間違いないだろう。
インタビューにもあったように深瀬先生は今後若手の育成にも取り組んでいくとのことだった。その新たな「立場」によって先生自身もまた大きく変化を遂げていくに違いない。山形県を幸せにするために、ひいては国内の総合診療医の励みとなるために、ぜひ頑張っていただきたいと思います。

次号、いよいよ深瀬先生のいる山形県への訪問リポートです~

最終更新:2024年03月05日 09時04分

島嶼およびへき地医療委員会

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