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「山間へき地で総合診療医になる」/vol.2/02 山形県立河北病院 深瀬龍先生(訪問リポート編)

離島医療・へき地医療と聞くと、
 興味はあるけど身近にない。イメージが湧きにくい。だから、飛び込みづらい…
そういう方多くないですか?

JPCA「島嶼およびへき地医療委員会」では、多くの方が島嶼・へき地にもっと関心をもってもらう為に、日本全国の島嶼やへき地などの医療現場を訪れ、働いている医師を通して離島やへき地で実践されているリアルな医療、そしてそこでの生活を紹介するシリーズをお届けします。中高生や医大生、これからそのような医療に飛び込んでみたいと考えている先生方には、このシリーズでいろいろなロールモデルに出会えると思います。また、地域で生活されている方には、医師がどのような想いでその地で医療を行っているのかを垣間見て頂ければと思います。

山形県の山間部 総合診療医 深瀬龍先生にお会いしてきました!

東京から車で5時間ほど。高速道路で向かえば、案外早く着く。山間へき地で勤務されている先生に会いに行くのであれば、やはり雪深い季節だろうと2月に向かったが、今年は暖冬により積雪はいつもと比較にならないほど少なかった。そうは言っても、東京から離れるにつれて山の色合いがかわり、残雪がちらほら見えてくる。病院を囲む奥羽山脈と出羽山地は山頂から中腹までは白く、農地は雪をかぶっている。雲もどんよりしていて、隙間から日が差すとホッとする。
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病院全体で総合診療を応援し支えている山形県立河北病院

深瀬龍先生が現在勤務されているのは、山形県立河北病院。100床ほどの病院の総合診療科に属し、外来診療、病棟業務、救急対応、訪問診療と幅広く対応されている。緩和ケア病棟があることも特徴的な病院だ。3次医療機関までは救急車で20分ほどの場所にあり、1市4町7万人ほどを支える4つの病院の1つ。とはいえ、どの地方にもあることだが、医師の高齢化も進んでおり、河北病院も同様に医師の平均年齢は高い。その中で、総合診療科の二人の医師は群を抜いて若い。フットワーク軽く、各スタッフとの対応を柔軟に行っていた。病院長や事務部もどんな患者もまずは対応する総合診療科を応援し、支えていくという思いだけでなく行動に移し、予算を確保し、一歩ずつ未来の病院の形をイメージしながら進めている。その一つに訪問診療体制の構築も入っている。三位一体を感じた。
深瀬先生に病院内を案内してもらっていると、リハビリを終え、スタッフに車いすを押してもらいながら部屋に戻る女性患者さんに出会った。「おー、元気になりましたね!リハビリは進んでいますか?」と、深瀬先生から声をかけた。「お陰様で、左手もだいぶ動くようになりましたよ。皆さんが頑張って下さるから、応えないといけないと思って!」と患者さんは応えた。その後も、入院中でのお困りごとがないかなど聞いた上で、「ここまで元気になると思ってなかったぐらい回復してきましたね。その調子で頑張って!」と笑顔で会話をしながら、見送った。
「1週間前に脳梗塞で運ばれてきたときは、状態が悪くて日常生活の機能がどこまで回復するかわからなかったんですよね。でも、リハビリスタッフも頑張ってくださり、とても順調ですね。」と経過を教えてくれた。

「緩和ケア」 病院から地域へ出向く訪問診療をはじめたその理由

次に緩和ケア病棟に案内してもらった。壁の色も暖かく気持ちが落ち着く。その一室の患者さんのところへ足を運んだ。今までたいした病気はなかったが4ヶ月ほど前から体重が急に減ったことや便秘で困って救急車で運ばれたことがきっかけで深瀬先生との付き合いが始まった。いろいろと検査をする中で、一度専門医の診断が望ましいと判断し、20分ほど離れたところにある3次医療機関へ紹介した。やはり進行癌であることが判明し、緩和ケアを中心とした治療方針となった。そして、今回自宅での生活を整えるために河北病院に戻ってきた。
「こっちに戻って来て、食事がおいしくてね。やっと食べられるようになったんですよ。」
「向こうの先生も若くて、いい先生だったんだけど、こっちの先生は何でも話しやすくて、ほんとに私は運がいい。いい先生ばかりに当たってるわ。」と笑顔がこぼれた。
深瀬先生も「向こうの先生も、よく知っている先生だから連携がとりやすくてね。家での生活が出来る状態になったら、退院しましょう。通院が難しくなったら訪問診療しますしね。」と。すかさず、患者さんが「でも、あのあたりに先生たちが来たら、目立つからちょっとねぇ...」と難色を示した。確かにこの地域で一軒一軒がそれほど多くない集落に見知らぬ車が出入りをすると目立つのは、想像がつく。
深瀬先生は「大丈夫ですよ。車もそんな目立つ車では行かないですし(笑)」と優しくこの地域の方言で応えた。会話の節々に自宅に戻ったときの生活をイメージした方針決定を考えていることが伝わる。
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「生活している場所で死を一緒に安らかに迎えることが大切だと思ったんです。」大蔵村診療所での経験が今にどのように活きているのかを伺った時にこのように答えていただいた。遺伝性の先天性疾患で治療困難・緩和ケアが必要な若い方がおられた。その方のお住まいが、大蔵村診療所から車で20分ほどの山間部にある。出羽三山への参道口に位置する肘折温泉の近くで、冬期はそこから先への道は雪深いため封鎖される。四駆の訪問車で向かうようなところだ。
 
「お母様の希望もあり、自宅での看取りをサポートしたのですが、最期の時に思いがけず状態が急に悪化し亡くなられました。そのときに、本当にこの対応でよかったのだろうかと今でも考えます。この経験があって、緩和ケアをもっと学びたいとも思いました。」

このような思いで、今の病院で訪問診療も開始した。入院で担当した患者さんが他の診療所も含めて通院困難な場合などに導入していき、今は週に2回、2名の医師体制で対応している。深瀬先生は、大蔵村診療所での訪問診療経験を元に、病院内だけでなく、病院外との連携をこの盆地で一歩ずつ進めていた。

地域医療での総合診療では、一人でも多くの仲間を増やすことが大切

外来・病棟・緩和・訪問・救急対応。これらをバランスよく行っていくためには一人ではなかなか難しい。このキーとなっているのは、同じ総合診療科チームである齋藤先生の存在だと感じた。彼も、都内で総合診療研修を修了し、地元である河北町に戻って来た。この地域の土地勘がある若い二人で仕事を共有しながら、コメディカルと上手にコミュニケーションをとり、患者さんにとって1番よい選択は何だろうかと議論していた。そして、互いがモチベーションを維持するために院内だけでなく山形県の他地域の総合診療医とのオンライン教育環境も整えるようにしていた。

「将来は、やっぱり大蔵村のようなところで診療をもう一度したいです。でも、山形県全体のことや地域のことを考えると自分一人だけでは継続性が担保されない。その為にも仲間作りが必要です。今はここで、総合診療の仲間を増やしていきたいです。」
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診療時間が終わるときに受け入れた1人の救急患者。その対応に深瀬先生の深い地域への想いが見れた

1日の取材が終わる勤務終了間際の夕方に、救急隊から受け入れ要請の連絡が入った。「高齢男性の一過性意識消失、転倒。目撃者なし。今は意識クリア。バイタルサインも安定しています。ただし、腹痛の訴えがあります。」このような情報を受け、「わかりました。何分後到着予定ですか?」と深瀬先生は受け入れた。救急室に向かい、前もって予想される疾患のための指示を看護師にだす。「こんなときに限って、本物の救急疾患がやってくるかもしれないですよね。」と話していた。まもなくして救急隊が到着し、患者さんを引き継ぐと苦悶様の顔つきで腹部を痛がっている。少し診察スピードのギアを上げ、エコーを当てるとやはり、血管系緊急疾患であった。無駄な動きなく、すぐさま、3次医療機関への受け入れ要請を行い、了承を得て、救急車に同乗して患者搬送を行うことになった。「ほんと、こういうときに限ってあるんですよね。」といいながら、救急車に乗り込んだ。1日の取材で、バランスよく日常の深瀬先生の診療を垣間見た。
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「生活面」についてもお話をお伺いしてみました

家族との時間を大切に過ごしたい

救急搬送のため、予定より少し遅れて2人の娘様を連れて奥様と4人で約束のお店に到着された。
「パパ、今日帰ってくるの遅かったねー」とお子様からの愛されている言葉が印象深かった。遅いといっても帰宅したのは19時前。普段から早く家に帰って、家族の時間を大切に過ごされているんだなと感じた。深瀬先生ご本人も、お子様を抱っこしながら「親は緊急内視鏡や論文執筆でほんとに家に帰れなかった人だったんで、自分自身はそうはならないようにしようって思っているんですが、結婚前は、ずっと病院にいるような人間だったんです。」と笑った。
「大蔵村診療所勤務時に、子供が産まれて、家族まとめて、村の人がとても可愛がってくれて。子供も、今でも村が好きでよく話をするんです。」と続けた。
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奥様が口にされた「家族で動く」という考え

奥様にも、村での生活について伺ってみた。
「もともと、山形の田舎育ちなので、それほど村で生活することは抵抗がなかったかもしれません。でも、子供がいなかったら、籠もっていたでしょうね。子供が毎日外に出て遊びたがっていたので、自然と外でいろんな方と話すことが多かったです。」

「中学校までしかないため、子育てという点では、長くそこで勤務となっていた場合どうだったかは想像がつかないですけど、家族で動くという考えを元に生活を決めていると思います。そもそも、将来、山間へき地勤務をすることがわかった上で結婚しているのである程度覚悟もあったと思います。」

 奥様にインタビューをしている間、お子様とのふれあいの時間を大切にしていた深瀬先生。それを見て、奥様の「家族で動く」という言葉がしっくりきた。

「仲間が増えたら、自分がもう一度大蔵村診療所など山間へき地に向かい、そこでも若い医師の教育に携われるような流れを作りたいと思います。」

深瀬先生の大きな目標へ一歩ずつ進んでいるように感じた。

【取材後記】

話を伺う中で、今勤務されている河北病院だけでなく、やはり診療所と大蔵村を見に行きたくなり翌朝、1時間離れた村へ向かった。大蔵村は銅山や船運などで栄え、昔は多くの人がいたが、産業の衰退と共に過疎化が進んだ地域だ。山間にひっそりと肘折温泉という湯治場もあり、日本の昔の風景が残る村だった。ただし、そこから先は、暖冬とは言え、雪に遮断され冬期通行止めとなっていた。話に伺っていた訪問診療先もこのあたりだったのかと思うと、そこで生活されている方が自分の家で最期を迎えたいという願いをサポートすることは医師一人だけではなくその地域の医療者が協力してはじめて叶えられたのだと回想した。
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村の中心部に向かうと、役場の隣に診療所があり、通りを挟んだところに食堂があった。昼に食べに来るのは、工事現場勤務であろう常連さんや通院帰りの方。みんな顔見知り。互いが協力し合って生活が成り立っている。「深瀬先生の取材でこのお店に寄りました。」と伝えると、「今も河北病院で頑張ってるみたいだね。うれしいよ。」とご主人も笑顔で応えてくれた。村民として今も愛されているのだろう。ちょうどお店のテレビに能登半島への被災地派遣として深瀬先生が映っていた。
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取材

日本プライマリ・ケア連合学会 島嶼およびへき地医療委員会
医療法人SHIODA塩田病院 総合診療科 医師 青木 信也

最終更新:2024年03月20日 23時01分

島嶼およびへき地医療委員会

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島嶼およびへき地医療委員会

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