ホームニュースプライマリ・ケア Field LIVE!vol.57/ 「チームづくり、連携づくりを通して地域をビルドアップする」【医師】中川貴史先生
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プライマリ・ケア Field LIVE!
vol.57/ 「チームづくり、連携づくりを通して地域をビルドアップする」【医師】中川貴史先生
今回取材に協力いただいた中川先生は「誰もが自分らしい医療や人生の最終段階を選べるような地域づくりを」との信念で日々の活動を続けている方。北海道で早くから家庭医として活躍されてきた先生に、医師を目指した理由やプライマリ・ケアとの出会い、地域医療のあり方についてさまざまにうかがいました。
医師を志したきっかけは「人」への関心から
― 先生が医師を目指そうと思ったのはいつ頃だったんですか?
明確に意識したのは高校2年生の後半でした。最初は建築関係の仕事にも興味があったんです。大きな建物を建てたり、ものづくりをする仕事に魅力を感じていたのですが、途中で気が付いて良かったなと思うのは「自分は絵が圧倒的に下手だ」ということ(笑)。建築士の道はないなと思いました。
一方で、私はコミュニケーションを取ることが苦手ではなく、さまざまな人たちと話をする中で「自分は人間が好きなんだ」と強く感じていました。そこで「ものづくり」と「人の健康」という要素を掛け合わせた選択肢として「医師」という職業が浮上してきたんです。
当時は何科の医師になりたいかといった具体的なイメージはありませんでした。ただ漠然と「もし目の前に困っている人がいたら場所や状況を選ばずにスッと近づいていける、そんな医師になれたらいいな」という思いがありました。
一方で、私はコミュニケーションを取ることが苦手ではなく、さまざまな人たちと話をする中で「自分は人間が好きなんだ」と強く感じていました。そこで「ものづくり」と「人の健康」という要素を掛け合わせた選択肢として「医師」という職業が浮上してきたんです。
当時は何科の医師になりたいかといった具体的なイメージはありませんでした。ただ漠然と「もし目の前に困っている人がいたら場所や状況を選ばずにスッと近づいていける、そんな医師になれたらいいな」という思いがありました。
― 家庭医や総合診療を知ったきっかけは何だったのでしょう?
6年生になる直前の春休みに大学のバスケットボール部のOB会に参加したことがきっかけです。そこに、現在「北海道家庭医療学センター」の副理事長を務める山田康介先生がいらっしゃいました。山田先生はバスケ部の先輩なんです。その時、同じテーブルになった山田先生から「(将来進むのは)何科に決めたんだ?」と聞かれました。正直に「まだ決めかねているんです。いろいろな診療科を回って、それぞれに魅力を感じるのですが、特定の診療科でずっと続けていくイメージが持てないんです」と話しました。
山田先生は聞き上手な方ですから、私の思いをさらに引き出してくれたんですね。それで私が「誰かが困っていたり倒れていたりする時に、専門を超えた知識や技術がないと救うことは難しいのではないか」という考えを伝えたところ、先生が「だったら、家庭医療っていうのがあるんだよ」とおっしゃったんです。「疾患包括的、臓器包括的なものを見る医師なんだ」という話から、人の生活背景や健康・疾患など病気全体を診る医師という存在を知ったんです。
山田先生は聞き上手な方ですから、私の思いをさらに引き出してくれたんですね。それで私が「誰かが困っていたり倒れていたりする時に、専門を超えた知識や技術がないと救うことは難しいのではないか」という考えを伝えたところ、先生が「だったら、家庭医療っていうのがあるんだよ」とおっしゃったんです。「疾患包括的、臓器包括的なものを見る医師なんだ」という話から、人の生活背景や健康・疾患など病気全体を診る医師という存在を知ったんです。
― それで「家庭医」という分野に興味が湧いたわけですね?
まさにその通りです。山田先生に「一度見に来い」と誘っていただき、室蘭の日鋼記念病院へ見学に行きました。山田先生が初期研修医時代に過ごした病院なんのすが、ここで患者さんのことを真摯にディスカッションする先生方の姿や、患者さんとの対話で見せる表情、会話の雰囲気といったものすべてが自分の思い描いていた医療に合致すると感じました。
一方で、当時の私の大学の環境ではそうした考えは異端でした。よくあるのが「何でも診られる医者は何も診られない医者と同じだ」という言説です。当時、家庭医療や総合診療という分野に対する周囲の理解度は非常に低く、ローテーションで診療科を回るたびに「専門医じゃないとダメだ」「家庭医療ってなんだそれ」と言われ続けました。でも私は専門診療科が進化していく中、家庭医が患者さんの全体を診るという「横串」の役割を担うことは非常に役にたつという考えがあったので、先輩や教授陣と絶えずディスカッションを重ねました。厳しい意見に直面しながらも「自分はここを目指したい」というアイデンティティを確立することができたと言えます。今は時代も変わり、家庭医療への親和性も少しは出てきましたが、当時は本当に厳しい道のりでしたね。
一方で、当時の私の大学の環境ではそうした考えは異端でした。よくあるのが「何でも診られる医者は何も診られない医者と同じだ」という言説です。当時、家庭医療や総合診療という分野に対する周囲の理解度は非常に低く、ローテーションで診療科を回るたびに「専門医じゃないとダメだ」「家庭医療ってなんだそれ」と言われ続けました。でも私は専門診療科が進化していく中、家庭医が患者さんの全体を診るという「横串」の役割を担うことは非常に役にたつという考えがあったので、先輩や教授陣と絶えずディスカッションを重ねました。厳しい意見に直面しながらも「自分はここを目指したい」というアイデンティティを確立することができたと言えます。今は時代も変わり、家庭医療への親和性も少しは出てきましたが、当時は本当に厳しい道のりでしたね。
医師4年目で診療所の所長に
― 先生の初期研修先も、日鋼記念病院だったのですね。
当時としては珍しく、初期研修の段階から家庭医療をどっぷり学べる環境だったんです。今の制度では、家庭医療の専門研修はいわゆる後期研修から始まります。そのため、初期研修はどこの病院で行っても良いというのが一般的です。しかし、私の時代はまだマッチング制度などもなく、そのようなシステムが整備されていませんでした。
そこで私たちは、家庭医になるという目標のために、初期研修の2年間を通じて専門診療科をローテーションしながらも、毎週決まった曜日に家庭医療のクリニックへ通って現場で勉強を続けました。専門科のハードな研修と、並行して訪問診療の患者さんのケアなど家庭医療の勉強もする、まさに「ダブルワーク」のような状態でしたね。
しかし、これは非常に重要でした。現在の家庭医療が抱える課題の一つに、学生時代に興味を持った若手が後期研修に入るまでの2年の間にアイデンティティ・クライシスを起こし、家庭医療を諦めてしまうケースが一定数あるんです。専門科の研修だけを続けていると家庭医としての自分を見失いやすい。私たちのように初期研修から家庭医療の現場で学び続けられる環境は、自分の目指す医師像を保ち続けるために非常に良かったと感じています。
そこで私たちは、家庭医になるという目標のために、初期研修の2年間を通じて専門診療科をローテーションしながらも、毎週決まった曜日に家庭医療のクリニックへ通って現場で勉強を続けました。専門科のハードな研修と、並行して訪問診療の患者さんのケアなど家庭医療の勉強もする、まさに「ダブルワーク」のような状態でしたね。
しかし、これは非常に重要でした。現在の家庭医療が抱える課題の一つに、学生時代に興味を持った若手が後期研修に入るまでの2年の間にアイデンティティ・クライシスを起こし、家庭医療を諦めてしまうケースが一定数あるんです。専門科の研修だけを続けていると家庭医としての自分を見失いやすい。私たちのように初期研修から家庭医療の現場で学び続けられる環境は、自分の目指す医師像を保ち続けるために非常に良かったと感じています。
― その後、北海道家庭医療学センターで後期研修医になられます。
当初は2年間かけて地域ごとの健康課題をじっくり学んでいく予定でした。しかし、突然の「嵐」が私に吹き荒れるんです。それは寿都(すっつ)町立寿都診療所の所長になれという辞令でした。当時、わたしの上司だった葛西龍樹先生に言われたんです。「中川くん、所長として寿都に行ってくれないか」と。
お話をいただいた当時は卒後3年目でした。その時の寿都町は人口が約3800人。そんな町の公立診療所のトップを任されるというのは、非常に重い話でした。妻に相談したところ「あなたが行きたいと思うなら行ったらいい」と背中を押してくれて、寿都に行くことになりました。
その結果、時間をかけて研修でいろいろなものを見ていくという状況ではなくなりました。後半の半年間は、同期の医師2人と合わせて3人で寿都へ行く準備に明け暮れ、お尻に火がついた状態で勉強を進めていったという感じです。後期研修のプランは大きく変わりましたが、医師として腹をくくる大きな転機となりました。
お話をいただいた当時は卒後3年目でした。その時の寿都町は人口が約3800人。そんな町の公立診療所のトップを任されるというのは、非常に重い話でした。妻に相談したところ「あなたが行きたいと思うなら行ったらいい」と背中を押してくれて、寿都に行くことになりました。
その結果、時間をかけて研修でいろいろなものを見ていくという状況ではなくなりました。後半の半年間は、同期の医師2人と合わせて3人で寿都へ行く準備に明け暮れ、お尻に火がついた状態で勉強を進めていったという感じです。後期研修のプランは大きく変わりましたが、医師として腹をくくる大きな転機となりました。
― 実際、寿都(すっつ) に行かれてみていかがでしたか?
面白かったですよ(笑)。まず、私が行った時、寿都診療所は家庭医を中心とした19床の有床診療所としてちょうど生まれ変わるタイミングで、救急を含めた外来、入院管理、そして訪問診療も行うという新しいスタイルです。
そのスタートした初日に早速事件が起こるんです。当時の私は28歳でしたが、外来は大忙しで、そこに80代の女性が「胸が痛い、心臓が痛い」と大声で叫びながら待合室に現れました。新しい医師がどんなものかと様子見に来た町民で初日にしては混雑しており、渋滞している中で、その方が「早く診ろ!」「注射の1つもできないのが今度来た医者か!」と廊下で怒鳴り散らしているんです。
私は「大変なところに来たな」と思いつつ、過去のカルテを見ても胸が痛いと訴えた記録はありません。困り果てていると、その方は怒って帰ってしまいました。そして、その足で町長室へ行き「今度来た若い医者はとんでもない!町長は何を考えているんだ!」と怒鳴り散らしたというんです。
それが私の寿都での初日でした。この経験を通じて、現実の地域医療は理想だけでやれるものではないと痛感しました。ちゃんと町民全員の命を守るためには、みんなで協力してやっていかないとダメだ、ということを実感した出来ごとでしたね。
そのスタートした初日に早速事件が起こるんです。当時の私は28歳でしたが、外来は大忙しで、そこに80代の女性が「胸が痛い、心臓が痛い」と大声で叫びながら待合室に現れました。新しい医師がどんなものかと様子見に来た町民で初日にしては混雑しており、渋滞している中で、その方が「早く診ろ!」「注射の1つもできないのが今度来た医者か!」と廊下で怒鳴り散らしているんです。
私は「大変なところに来たな」と思いつつ、過去のカルテを見ても胸が痛いと訴えた記録はありません。困り果てていると、その方は怒って帰ってしまいました。そして、その足で町長室へ行き「今度来た若い医者はとんでもない!町長は何を考えているんだ!」と怒鳴り散らしたというんです。
それが私の寿都での初日でした。この経験を通じて、現実の地域医療は理想だけでやれるものではないと痛感しました。ちゃんと町民全員の命を守るためには、みんなで協力してやっていかないとダメだ、ということを実感した出来ごとでしたね。
― 「みんなで協力」というのは多職種連携にも関わってきますか?
それもありますね。多職種連携で言えば、寿都のような小さな町では、いろんなものがコンパクトにまとまっているんですね。例えば私が今いる札幌では、訪問看護ステーションだけでも40か所と連携していますが、寿都には訪問看護ステーションは1か所しかありませんでした。ケアマネージャーさんも2〜3人。役場の保健師さんも3〜4人です。
ただ、コンパクトだからといって手を抜いていいわけではありません。むしろコンパクトだからこそ全体が見通せますし、一度でも連携が破綻してしまうと、リカバリーが非常に難しいんです。だからこそ、私たちは多職種間で丁寧に連携をしていく必要がありました。「こういう言い方をすれば、こういう反応になってくるんだな」「相手の気持ちもわからないで、自分の主張ばかりしても上手くいかないな」といったことを、肌身で感じながら学びました。
そうやって相手の立場を理解し、お互いの責任を果たしながら地域と向き合うことで、結果的に寿都町でさまざまなケアの形を新しく創出していきました。そうした活動が評価されたのか、俳優の桜井翔さんがNHKの番組の取材で来てくれたりもしましたね。
ただ、コンパクトだからといって手を抜いていいわけではありません。むしろコンパクトだからこそ全体が見通せますし、一度でも連携が破綻してしまうと、リカバリーが非常に難しいんです。だからこそ、私たちは多職種間で丁寧に連携をしていく必要がありました。「こういう言い方をすれば、こういう反応になってくるんだな」「相手の気持ちもわからないで、自分の主張ばかりしても上手くいかないな」といったことを、肌身で感じながら学びました。
そうやって相手の立場を理解し、お互いの責任を果たしながら地域と向き合うことで、結果的に寿都町でさまざまなケアの形を新しく創出していきました。そうした活動が評価されたのか、俳優の桜井翔さんがNHKの番組の取材で来てくれたりもしましたね。
大都市でも「地域」は作っていける!
― 寿都で12年間過ごしたあと、今度は札幌に移られました。
はい。2017年に栄町ファミリークリニックの院長に着任しました。舞台は札幌という大都会へと変わりましたが、相手にしているのはやはり「人間」です。ですから患者さんがどこに住まれていても、私たちに求めているものは本質的に同じだと感じています。寿都で私が培ってきたことは、札幌でも同じように活きています。それは、診察室の中で患者さん一人ひとりを丁寧に診させていただき、その方が困っていることの解決に導くきっかけを一緒に探していくというやり方です。
ただ、大きく違うのは患者さんを取り巻く「環境」ですね。僻地である寿都と政令指定都市の札幌では医療機関や介護事業所の数が圧倒的に異なりますし、利便性や健康に関する情報も都市では溢れています。また、寿都では高齢者の独居や老老介護が当たり前でしたが、札幌では親子世代で住んでいるなど家族の力が比較的残っている世帯が多いのも特徴でした。
人そのものは同じでも、環境が違う。そこに私たち医師が何ができるかを考えた時、その新しい環境を深く理解し、地域全体を知り、必要な調整を先回りしてできるように、自らが活躍できるフィールドを耕していくことだという結論に達しました。それがそのまま患者さんのメリットにつながるからです。まずは、その「環境への適合」を探し続けるのが札幌に来た当初の取り組みでした。
ただ、大きく違うのは患者さんを取り巻く「環境」ですね。僻地である寿都と政令指定都市の札幌では医療機関や介護事業所の数が圧倒的に異なりますし、利便性や健康に関する情報も都市では溢れています。また、寿都では高齢者の独居や老老介護が当たり前でしたが、札幌では親子世代で住んでいるなど家族の力が比較的残っている世帯が多いのも特徴でした。
人そのものは同じでも、環境が違う。そこに私たち医師が何ができるかを考えた時、その新しい環境を深く理解し、地域全体を知り、必要な調整を先回りしてできるように、自らが活躍できるフィールドを耕していくことだという結論に達しました。それがそのまま患者さんのメリットにつながるからです。まずは、その「環境への適合」を探し続けるのが札幌に来た当初の取り組みでした。
― 具体的にはどのようなことをされたのでしょう?
現在のことで言えば、私は札幌市が作っている「地域包括ケア推進委員会」の委員長を務めています。ここでは、市民や多職種、そして札幌市の医師会の先生方に対して地域包括ケアの啓発や情報提供を行っています。例えば人気のカフェで在宅医療の話をする企画を立てるなど多様な活動の中枢にいることができています。
また、私がいる東区(人口25万人)では、地域の大きな病院から小さなクリニック、訪問看護、地域連携室といったあらゆる多職種が一堂に会する勉強会を立ち上げ、ファシリテーションをしています。毎回100~200人の方が集まり、退院調整から在宅への連携をどうすべきかを学んでいます。
これはコンパクトな寿都での経験を最大限に活かした取り組みです。都会はサービスを提供する側も数が多いがゆえに「玉石混交」で見えにくい状態になり、結果的に「医療難民」を生みやすいという指摘があります。しかし職種は違えど、誰もが「目の前の1人の人間のために役に立ちたい」というベクトルを持つプロフェッショナルです。そのプロフェッショナル集団のベクトルを合わせ、連携の風通しを良くすることで、札幌でも「何かあったら病院に搬送される」だけではなく「家や地域のかかりつけ医が責任を持って診てくれる」という幅広い選択肢を等しく選べる世の中にしていけるはずだと、私は身をもって感じています。
私自身49歳になり、寿都で12年間揉まれ、札幌でも実績を出す中で、一つ確信したことがあります。それは、寿都のような小さな町だけでなく、札幌のような大都市でも「地域を作っていく」ことはできるということです。
また、私がいる東区(人口25万人)では、地域の大きな病院から小さなクリニック、訪問看護、地域連携室といったあらゆる多職種が一堂に会する勉強会を立ち上げ、ファシリテーションをしています。毎回100~200人の方が集まり、退院調整から在宅への連携をどうすべきかを学んでいます。
これはコンパクトな寿都での経験を最大限に活かした取り組みです。都会はサービスを提供する側も数が多いがゆえに「玉石混交」で見えにくい状態になり、結果的に「医療難民」を生みやすいという指摘があります。しかし職種は違えど、誰もが「目の前の1人の人間のために役に立ちたい」というベクトルを持つプロフェッショナルです。そのプロフェッショナル集団のベクトルを合わせ、連携の風通しを良くすることで、札幌でも「何かあったら病院に搬送される」だけではなく「家や地域のかかりつけ医が責任を持って診てくれる」という幅広い選択肢を等しく選べる世の中にしていけるはずだと、私は身をもって感じています。
私自身49歳になり、寿都で12年間揉まれ、札幌でも実績を出す中で、一つ確信したことがあります。それは、寿都のような小さな町だけでなく、札幌のような大都市でも「地域を作っていく」ことはできるということです。
― 今後取り組んでいかれたいことはありますか?
今申し上げた「地域を作っていく」ことはもちろんそうですが、栄町ファミリークリニックとして取り組みたいことで言えば、私が最も得意とする「チームを育てていく」ことですね。私が札幌に来たのは、このクリニックが不安定になった時期があり「寿都で築いたチームビルディングの実績を、札幌でも再現してほしい」という法人の意向があったからです。
当初は鳴り物入りで来た私に対し、スタッフも動揺や戸惑いがあったでしょう。私が目指したのは「失敗は誰でもするもの」という前提に立ったチームです。間違いは誰でも犯す。もし誰かの間違いを周囲がフォローできなかったなら、フォローできなかった自分を責めるぐらいの気持ちで互いに支え合わなければいけない、と伝え続けました。
間違いの原因はシステムに起因する場合もあります。私は失敗を隠すのではなく、むしろ「こういう間違いが起こるんだ」という組織のプラスの財産としてオープンにし、再発を予防する仕組みを皆で考えていくよう促しました。この考えを日々伝え続けた結果、チームは大きく変わり、私が着任してからスタッフ数は3倍、外来患者数も3倍、訪問診療も2.5倍に増加しました。
「みんな困って来ているのだから、時間外にかかる人でも快く診よう。丁寧に診ることで、このクリニックを良いと思ってくれたら、暮らしに安心が一つ増える」という、私たちが大切にする家庭医療のスピリットを共有し、チーム一丸となって歩んできた9年間だと感じています。今後もチームづくりには力を入れ続けていきたいですね。
間違いの原因はシステムに起因する場合もあります。私は失敗を隠すのではなく、むしろ「こういう間違いが起こるんだ」という組織のプラスの財産としてオープンにし、再発を予防する仕組みを皆で考えていくよう促しました。この考えを日々伝え続けた結果、チームは大きく変わり、私が着任してからスタッフ数は3倍、外来患者数も3倍、訪問診療も2.5倍に増加しました。
「みんな困って来ているのだから、時間外にかかる人でも快く診よう。丁寧に診ることで、このクリニックを良いと思ってくれたら、暮らしに安心が一つ増える」という、私たちが大切にする家庭医療のスピリットを共有し、チーム一丸となって歩んできた9年間だと感じています。今後もチームづくりには力を入れ続けていきたいですね。
プロフィール
医療法人 北海道家庭医療学センター 常務理事
栄町ファミリークリニック 院長
中川貴史
2002年 北海道大学医学部卒業
室蘭日鋼記念病院初期研修医
2004年 北海道家庭医療学センター 後期研修医
本輪西ファミリークリニック
東室蘭サテライトクリニック
更別村国保診療所
2005年 寿都町立寿都診療所所長
2017年 栄町ファミリークリニック院長
<公職>
・日本プライマリ・ケア連合学会 代議員
多職種協働・地域包括ケア委員会委員
・札幌市在宅医療協議会/事業部長
・札幌市認知症医療推進協議会/役員
・札幌市地域包括ケア推進委員会/委員長
・札幌市医師会東区支部/ 副支部長 地域医療部長
・札幌市東区地域ケア連絡協議会/幹事
・札幌市東区 在宅医療の連携を担う拠点/代表
・札幌医科大学医学部医学科/臨床教授
・北海道大学医学部医学科/非常勤講師
<資格>
・日本プライマリ・ケア連合学会認定 家庭医療学専門医、指導医
・日本医師会認定産業医
・認知症サポート医
・がん診療に携わる医師に対する緩和ケア研修修了
<所属学会>
日本プライマリ・ケア連合学会
<原著>
中川貴史.公的有床診療所を維持運営していく必要性とその問題点~寿都町立寿都診療所の事例~.医療等の供給体制の総合化・効率化等に関する研究.厚生労働科学研究費補助金政策科学推進研究事業.主任研究者 島崎謙治.2007年
中川貴史.家庭医/総合診療医の活動が与える地域住民の受療行動変化~寿都町立寿都診療所における地域ケアの実践報告とその効用分析~.総合診療医が地域医療における専門医や多職種連携等に与える効果についての研究.厚生労働行政推進調査事業費補助金事業.2018年
栄町ファミリークリニック 院長
中川貴史
2002年 北海道大学医学部卒業
室蘭日鋼記念病院初期研修医
2004年 北海道家庭医療学センター 後期研修医
本輪西ファミリークリニック
東室蘭サテライトクリニック
更別村国保診療所
2005年 寿都町立寿都診療所所長
2017年 栄町ファミリークリニック院長
<公職>
・日本プライマリ・ケア連合学会 代議員
多職種協働・地域包括ケア委員会委員
・札幌市在宅医療協議会/事業部長
・札幌市認知症医療推進協議会/役員
・札幌市地域包括ケア推進委員会/委員長
・札幌市医師会東区支部/ 副支部長 地域医療部長
・札幌市東区地域ケア連絡協議会/幹事
・札幌市東区 在宅医療の連携を担う拠点/代表
・札幌医科大学医学部医学科/臨床教授
・北海道大学医学部医学科/非常勤講師
<資格>
・日本プライマリ・ケア連合学会認定 家庭医療学専門医、指導医
・日本医師会認定産業医
・認知症サポート医
・がん診療に携わる医師に対する緩和ケア研修修了
<所属学会>
日本プライマリ・ケア連合学会
<原著>
中川貴史.公的有床診療所を維持運営していく必要性とその問題点~寿都町立寿都診療所の事例~.医療等の供給体制の総合化・効率化等に関する研究.厚生労働科学研究費補助金政策科学推進研究事業.主任研究者 島崎謙治.2007年
中川貴史.家庭医/総合診療医の活動が与える地域住民の受療行動変化~寿都町立寿都診療所における地域ケアの実践報告とその効用分析~.総合診療医が地域医療における専門医や多職種連携等に与える効果についての研究.厚生労働行政推進調査事業費補助金事業.2018年
取材後記
「私たちは医療といえば 『病院しかない』 『何かあれば救急で搬送される』 『最期も病院で迎えるもの』 と考えがちですが、本来はそれだけではありません。自宅でも、地域のかかりつけ医でも、安心して医療を受けられる体制が整っている—そのことを多くの人が知り、実感できるようになることが重要です。こうした理解が広がれば「病院だけが正解」という思い込みから解放され、誰もが自分らしい医療や人生の最終段階を選べるようになります」
インタビューの終わりに、地域医療への思いをそんな風に熱く語ってくださった中川先生。その未来への想いこそが中川先生を日々突き動かしている原動力なのだと感じました。札幌をその実現に向けた「医療先進都市」として築き上げ、全国のモデルとなるような素晴らしい前例をぜひ生み出していただきたいと強く思います。
インタビューの終わりに、地域医療への思いをそんな風に熱く語ってくださった中川先生。その未来への想いこそが中川先生を日々突き動かしている原動力なのだと感じました。札幌をその実現に向けた「医療先進都市」として築き上げ、全国のモデルとなるような素晴らしい前例をぜひ生み出していただきたいと強く思います。
最終更新:2025年12月16日 18時20分























