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vol.34 /「いくつもの出会いが、南極に行く夢に繋がった」【医師】森川博久先生
今回ご登場いただく森川博久先生は、南極観測隊の越冬隊に家庭医として参加した経験をお持ちの方。現在は外務省医務官としてエチオピアに赴任されています。異色の経歴を持つ森川先生に、医師を志した理由からプライマリ・ケアとの出会い、そして南極のことや現在のことなど、これまでの歩みを語っていただくことにしました。
出会い1:スーパーマンのような医師に出会った衝撃
― 先生が医師を目指したきっかけから教えていただけますか?
よくある話だと思いますが「家族が病気を患った経験」が始まりです。私の場合は祖母が認知症になりました。優しかった祖母の変わった様子を見て「どうしてこんなことが起きるのだろう?」と思ったのが医学に興味を持ったきっかけでした。高校2年生の時に「医学部に行こう!」と決めて勉強を始めました。ところが自分の成績では簡単には入学が許されず、何度かの失敗の後に医師への道を諦めたこともありますが、悶々とした日々で「自分のやりたいことを目指す」と思い直し、再び医学部を目指すことにしました。遅ればせながら、25歳にして北の大地の大学でのキャンパスライフが始まりました。
― プライマリ・ケアに興味を持ったのはいつ頃だったのでしょうか?
大学5年生の時です。その時期に北海道内の医療機関で学ぶ見学実習があったのですが、私がお世話になった医療機関の一つが岩見沢市の診療所でした。ここにはネパールの医療に貢献されている楢戸健次郎先生がいらっしゃって、「どんな患者でも診る」先生がいるとの学友からの評判を耳にしていました。「何でも診る家庭医?面白そう!」と思い、実習に挑みました。当時、直接指導に当たってくれたのは武田伸二先生でした。「この先生はスーパーマンだ!」と衝撃を受けたのを良く覚えています。例えば、自衛隊の駐屯地に行って怪我をしている隊員の治療をしたかと思えば、次は乳児検診をしている。それが終わると、今度は若い女性のメンタルケアです。医療面接での会話や一挙手一投足には医学生にも判る緩急があり、まさに何でも器用にこなす家庭医でした。「この先生みたいになりたい」と思って以来、家庭医を目指すようになりましたが、それは日本の僻地や発展途上国で重宝される医師になりたいという決心がはっきりした瞬間だったと思います。
― 北海道大学卒業後のことをお聞かせ下さい。
北海道室蘭市にある「(旧)カレスアライアンス日鋼記念病院」で初期研修を受けることにしました。福島県立医科大学の地域家庭医療額講座教授の葛西龍樹先生や、現在の日本プライマリ・ケア連合学会理事長の草場鉄周先生が当時、その病院のサテライトクリニックで家庭医の指導に当たられており、そこで家庭医療学に入門しました。右も左も判らない研修医でしたが、まわりには尊敬する先輩方や志の高い同期がたくさんいて、大変刺激的な2年間を過ごしました。
当時のことで特に印象に残っているのは在宅医療研修です。糖尿病をもつ高齢の患者さんのご自宅に訪問診療で伺った際、居間のこたつの上には糖尿病を悪化させるであろう甘いお菓子がいっぱい並んでいたのを目にしました。お話を伺うとそれは患者さんのものではなく、ご主人が食べかけているものとのことでした。目の前にお菓子があるわけですからやはり「ついつい食べちゃうんですよね」と苦笑い。そこで先輩から「型にはまった食事指導だけじゃうまくいかないのはこういうこと。患者さんやその家族を含めた生活背景・人生の歴史を知った上で上手くいく方法を考えないと」との教えを受けました。病院の外来診療では意識されにくい、「家族志向のケア」の奥深さを、患者の自宅での実感を元に学べたエピソードです。
当時のことで特に印象に残っているのは在宅医療研修です。糖尿病をもつ高齢の患者さんのご自宅に訪問診療で伺った際、居間のこたつの上には糖尿病を悪化させるであろう甘いお菓子がいっぱい並んでいたのを目にしました。お話を伺うとそれは患者さんのものではなく、ご主人が食べかけているものとのことでした。目の前にお菓子があるわけですからやはり「ついつい食べちゃうんですよね」と苦笑い。そこで先輩から「型にはまった食事指導だけじゃうまくいかないのはこういうこと。患者さんやその家族を含めた生活背景・人生の歴史を知った上で上手くいく方法を考えないと」との教えを受けました。病院の外来診療では意識されにくい、「家族志向のケア」の奥深さを、患者の自宅での実感を元に学べたエピソードです。
― その後は「国立国際医療研究センター」の総合診療科に行かれます。
自分のなかで「内科全般の知識がまだ少ないな」と思っていたことが理由としては大きかったです。内科分野をもっと深めたいと思いました。また、国立国際医療研究センターには「国際医療協力局」というJICAの専門家として海外に医療従事者を派遣する機関があって、国際保健分野で活躍されている先生方が近くにいてお話を伺える環境の病院でした。国際保健にも興味があったので、ここで最初の総合診療科後期研修を受けつつ、国際保健のことも学ぶ4年半を過ごしました。
その後はやはり家庭医の道に戻り、ドクターG岡田唯男先生が率いる「亀田ファミリークリニック館山(KFCT)」に2度目の後期研修で入職します。やはり研修医時代に触れた家庭医の神髄を身につけたいのが理由でした。千葉県館山市での2007年秋から11年までの研修でも、優秀な先輩や同期、後輩から多くの刺激を受けながら家庭医療の環境にどっぷり浸かって、念願だった家庭医療専門医を取得しました。
その後はやはり家庭医の道に戻り、ドクターG岡田唯男先生が率いる「亀田ファミリークリニック館山(KFCT)」に2度目の後期研修で入職します。やはり研修医時代に触れた家庭医の神髄を身につけたいのが理由でした。千葉県館山市での2007年秋から11年までの研修でも、優秀な先輩や同期、後輩から多くの刺激を受けながら家庭医療の環境にどっぷり浸かって、念願だった家庭医療専門医を取得しました。
出会い2:夢に見た南極へ!医師として越冬隊に参加
― その次に南極に行かれます。どういう経緯があったのでしょうか?
少し時間を巻き戻しますが、「南極に行ってみたい」という気持ちは子供の頃からありました。高倉健さん主演の映画「南極物語」を見たときの南極の光景がずっと鮮烈に頭に残っていました。私は北大に入る前からバックパッカーとしていろんな国を旅していたのですが、7大陸のうち南極大陸はやはり最後の牙城でした(笑)。
また、北大には低温科学研究所があり、南極での越冬経験がある先生の授業を教養部で受ける機会がありました。北大卒の先生の中に、南極に2回行かれた先生が稚内にいらっしゃると聞き、院外研修という名目で会いに伺い、直接お話を聞く機会を得ました。まだ学生であった私にもとても熱心に越冬中の経験談を聞かせて頂き、南極で活動する将来の自分の姿が具体的に想像できるようになりました。この出会いが後に、南極観測隊に応募時の推薦状を書いて頂くという縁に繋がりました。
亀田ファミリークリニック館山での家庭医研修を終えた頃に時を戻します。
この後、妻の出身地でもある奄美大島で家庭医として本格的に働く予定でした。そこで骨を埋めることになるのかな、と思っていたときに妻から「本当にそれでいいの? やり残したことはない?」と私の胸の内を見透かすように問われたのです。まだまだ修行が足りないかなと思っていましたので妻にも南極のことは打ち明けていませんでした。が、初めておそるおそる南極観測隊参加の希望があることを切り出してみたら、その夢を実現させてから奄美に行くべき、と強く背中を押してくれたのでした。妻は私の人生設計の相談に反対を唱えたことは一度もありません。自分の人生設計を私のそれに合わせてくれる、そのような妻に出会えたことが最大の幸福だと感じています。
この後、妻の出身地でもある奄美大島で家庭医として本格的に働く予定でした。そこで骨を埋めることになるのかな、と思っていたときに妻から「本当にそれでいいの? やり残したことはない?」と私の胸の内を見透かすように問われたのです。まだまだ修行が足りないかなと思っていましたので妻にも南極のことは打ち明けていませんでした。が、初めておそるおそる南極観測隊参加の希望があることを切り出してみたら、その夢を実現させてから奄美に行くべき、と強く背中を押してくれたのでした。妻は私の人生設計の相談に反対を唱えたことは一度もありません。自分の人生設計を私のそれに合わせてくれる、そのような妻に出会えたことが最大の幸福だと感じています。
南極観測隊に応募したとき、10何通ある応募書類から私の物に一番に興味を示してくれたのは、後に供に昭和基地で活動することになる第57次日本南極地域観測隊の越冬隊長でした。大阪出身、北大卒という共通点に目が留まり、そして真っ直ぐの人生ではないところが面白いと感じたので採用した、とは後に昭和基地でお酒を飲み交わしながら伺った話です。57次隊でなければ、私の希望は実現していなかった可能性が高く、夢実現の決定打となった出会いであったと言えます。
― 南極ではどのような毎日だったのでしょう?
南極観測隊の越冬隊として加わった医師は私ともうひとり、外科の先生でした。多くの場合、観測隊に選ばれる医師には外科医が含まれるようですが、家庭医が選ばれたのはこのときが初めてでした。
南極で外科手術が行われることはほとんどありませんから、隊員のみなさんのケアには家庭医の知識と経験が役立ちました。彼らは雪の上で作業をしたり重い荷物を運んだりととにかく体を酷使しますから「腰が痛い」「肩が痛い」「膝が痛い」という訴えが多かったです。また、低温の環境で乾燥しやすいので皮膚のトラブルも少なくありませんでした。さらには歯のトラブルも意外と多く見られました。詰め物が取れたので詰め直すというケースです。歯の治療に関しては南極に行く前に東京医科歯科大学で集中的にトレーニングを受けています。抜歯と詰め物治療と知覚過敏の対応に限ってでしたが、詰め物治療は結局20例近く経験しています。
南極で外科手術が行われることはほとんどありませんから、隊員のみなさんのケアには家庭医の知識と経験が役立ちました。彼らは雪の上で作業をしたり重い荷物を運んだりととにかく体を酷使しますから「腰が痛い」「肩が痛い」「膝が痛い」という訴えが多かったです。また、低温の環境で乾燥しやすいので皮膚のトラブルも少なくありませんでした。さらには歯のトラブルも意外と多く見られました。詰め物が取れたので詰め直すというケースです。歯の治療に関しては南極に行く前に東京医科歯科大学で集中的にトレーニングを受けています。抜歯と詰め物治療と知覚過敏の対応に限ってでしたが、詰め物治療は結局20例近く経験しています。
― メンタルの不調を訴える人はいなかったのでしょうか?
程度の差はあれ、常にストレスを抱えてますから、不眠を始めとしたメンタル不調を訴える人も耐えません。南極では太陽がずっと出ている白夜やまったくのぼらない極夜がありますし、屋外は悪天候でなくても一歩間違えば命に関わる環境です。また、閉鎖空間でお互いに距離が近い生活環境も少なからず影響していると言えます。越冬隊員は全員で30名ですが、いずれも個性が強い隊員ばかりですから摩擦が生まれないはずはありません。なるべく早期に摩擦を発見して、深刻になる前に対応するよう心がけていました。昭和基地のバーではバーテンダーをしながら愚痴に耳を傾け、ストレス軽減を図ったり、酒量の増加からメンタルの調子を探ったりもしていました。
出会い3:外務省の医務官として現在はアフリカに任務
― 南極から戻ったあと、今度はアルジェリアへ行かれました。
はい。いったんは国内で働いたのですが、また海外に行きたくなりまして(笑)。きっかけは後期研修の同期なのですが、その人が外務省の医務官としてアフリカに勤務していました。「なんか面白そうだな」と思っていろいろと話を聞き、家庭医の専門性やこれまで学んだ国際保健の知識も生きるかもと思い応募しました。家族を巻き込む挑戦は一度きりと自分に言い聞かせて応募した採用試験ですが、すんなり採用が決まりました。もちろんこの時も妻に意見を聞きましたが、お陰でとても刺激的で楽しい人生を歩んでいると言ってくれました。
最初の赴任先は北アフリカのアルジェリアでした。2019年の10月に入国しましたが、着任して数ヶ月で新型コロナウィルスが流行し始めました。外務省の医務官は大使館員(外交官)の健康を守ることが仕事ですから、彼らが感染せぬよう感染対策を施すため、新型コロナウィルスに関する論文やガイドラインが出るたびに目を通して対策を講じていきました。
アルジェリアには妻も来てくれたのですが、すぐに国ごとロックダウンし、それから1年半は国外に出られませんでした。妻とは「(地中海渡ってすぐの)ヨーロッパ旅行ができなくなったね」なんて話していましたが(笑)。アルジェリアでの任務が終わったのが2022年6月で、そこからいまのエチオピアに移りました。
アルジェリアには妻も来てくれたのですが、すぐに国ごとロックダウンし、それから1年半は国外に出られませんでした。妻とは「(地中海渡ってすぐの)ヨーロッパ旅行ができなくなったね」なんて話していましたが(笑)。アルジェリアでの任務が終わったのが2022年6月で、そこからいまのエチオピアに移りました。
― いまの医務官としての立場も含めて今後取り組んでいきたいことは何でしょうか?
アフリカはマラリアが蔓延する大陸です。このマラリアに関して、外国から帰国した日本人が発症したというデータはあるのですが、外国で発症・治療した日本人に関するデータはあまり多くないので、うまくデータを収集して何か社会に還元できないかと医務官仲間と構想しており、いつか学会や論文で発表できるように取り組んでいるところです。また、外務省の医務官として比較的小さなコミュニティで医療を実践しているわけですが、こうした経験から得られる知見もいずれまとめることができればと考えています。
まだ花を咲かせていない出会いという種が沢山あると思っています。次はどんな花が咲くのかも楽しみです。
まだ花を咲かせていない出会いという種が沢山あると思っています。次はどんな花が咲くのかも楽しみです。
■プロフィール
在エチオピア日本国大使館(外務省医務官)
森川 博久 先生
経歴:
大阪出身
2005年 北海道大学卒
2005−2007年 (旧)カレスアライアンス日鋼記念病院
※同院は当時、北海道家庭医療学センターが併設
2007-2011年 国立国際医療研究センター 総合診療科
2011-2015年 亀田ファミリークリニック館山 家庭医療診療科
2015年7月-2017年3月 第57次日本南極地域観測隊 越冬隊
2017-2019年9月 鹿児島県立大島病院 総合内科医長
2019年9月〜 外務省医務官
〜2022年6月 在アルジェリア日本国大使館
〜現在 在エチオピア日本国大使館
資格:
日本プライマリケア連合学会 家庭医療専門医
同 プライマリケア認定医、指導医
日本内科学会 認定内科医
日本医師会認定産業医
日本旅行医学会 認定医
森川 博久 先生
経歴:
大阪出身
2005年 北海道大学卒
2005−2007年 (旧)カレスアライアンス日鋼記念病院
※同院は当時、北海道家庭医療学センターが併設
2007-2011年 国立国際医療研究センター 総合診療科
2011-2015年 亀田ファミリークリニック館山 家庭医療診療科
2015年7月-2017年3月 第57次日本南極地域観測隊 越冬隊
2017-2019年9月 鹿児島県立大島病院 総合内科医長
2019年9月〜 外務省医務官
〜2022年6月 在アルジェリア日本国大使館
〜現在 在エチオピア日本国大使館
資格:
日本プライマリケア連合学会 家庭医療専門医
同 プライマリケア認定医、指導医
日本内科学会 認定内科医
日本医師会認定産業医
日本旅行医学会 認定医
■取材後記
インタビュー記事を読んでいただければお分かりのように、森川先生は実にユニークな経歴の持ち主。いったんは他の学部に籍を置いたものの「やはり医師になりたい」との思いを捨てきれず医学部に進学したこともそうだが、スーパーマンのような医師との出会いをきっかけに総合診療医を目指したこと、その総合診療医としては初めて南極に行ったこと、「面白そう」だからと外務省医務官になったことなどなど大変に話題が豊富で実りのあるインタビューとなった。先生ご自身がスーパーマンに思えるほどだが、その歩みの根底にあるのは「夢は必ずかなう」という信念ではないだろうか? ご本人の口からそういう言葉は出てこなかったにせよ、森川先生が自身の夢を一つひとつかなえてきたのは事実だ。少なくともその背中から励みを感じ取る人も少なくないに違いない。今後も世界中で活躍し続けながら、おおいに刺激を与えていただきたいと思う。
最終更新:2024年07月05日 10時55分